ボヤキ

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ボヤキ

毎年7千万頭以上のサメがフカヒレのために乱獲され、その大半はヒレを切られたままの姿で海に投げ戻され悲惨な死を遂げるのである。
その悲惨青現状を憂い昨年ニューヨークではフカヒレの使用や売買を禁止する条例ができた(2種のみ絶滅危惧品種ではないサメの利用は限定的ではあるが許可されている)。
それは食文化に対す攻撃ではなく、絶滅危惧品種を守るため、そして残酷な捕獲・活用方法をやめさせるための措置である。
多くの中国系市民を抱えるニューヨーク州、とりわけニューヨーク市では決して暴動など起こっていない。
むしろ、仕方がないことである、代替策を考えよう、という人のほうが多いようでもある。
中国料理店では、干しナマコやツバメの巣などが新たな中華料理のスターとなりつつある。
むろん、やはりなくては寂しい、どうしてもほしい、という人々もいないわけではないが、大きな流れとしては「先に進もう」という気運が感じられる。
それに対して日本のクジラ、イルカ問題はいまだ食文化に固執しているようである。
中国料理のフカヒレは以前から結婚式などには必須のアイテムであった。
客人に対するもてなしの神髄でもあったようだ。
しかし、それも時の流れと共に変わらざるを得ないことに対する受け入れがある。
日本にとってクジラ肉、イルカ肉はフカヒレと比べてどれほど重要な文化なのであろうか?
どうして一般市民はこれほど世界から罵倒されている問題に対して何も言わないのであろうか?
またまたザ・コーヴの対抗する策として日本人監督が「こちら側に言い分と文化」と主張する映画を作ったようであるが、果たしてその中ではイルカの扱い方をどのようにとらえているのであろう。
この問題はそもそもシーシェパードが大騒ぎをするから迷惑である、イルカ食いが残酷であるといわれるのは心外である、日本の文化がないがしろにされている等々の次元で語られるべきものではない。
答えを出さなければならない問題はただ一つ、イルカの死は苦しいものであろうかどうかである。
牛や豚のような家畜をトサツするにあたっては扱い方には厳しい基準が定められている。
完ぺきではないかもしれぬが家畜の苦しみや恐怖を最小限に抑えるような工夫が必要であることが認められているからである。
同じ哺乳類であるイルカを、しかも鹿やイノシシのように単独で猟師がしとめる動物とは異なり家畜のように大量に殺す状況下で、牛や豚などと同等ととらえるべきではなかろうか。
誰もこの点を取り上げようとしないのはどうしてであろうか。
少なくともイルカの専門家を名乗っている水族館関係者、イルカの研究をしている学識経験者などからは声が上がってもよいであろう。
愛護団体は漁をやめろ、食文化を変えろと言っているわけではない。
イルカが痛い、つらい、苦しい、恐ろしいという思いをしながら死んでいくことはいかがなものかと言っているのである。
合法的である、伝統文化である等々の議論は聞き飽きた。
上記の一点のみに関する返答がほしいのである。

山﨑 恵子

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